「ダイアローグ・ギルティ」 そのK


第六章

 〈高瀬和也と高瀬希(たかせ のぞみ)〉
「私が死んだら、楓と紅葉を頼んだわ」
「‥‥」
 仄暗い部屋の片隅で姉は私に笑顔でそう言った。昔の面影などどこにも無かった。
 そして、ゲームに出て姉は死んだ。額に弾丸を受け、泣きながら絶命した。私はそれを二階席からじっと見ていた。室内は歓声に包まれているのに、私の周囲だけが凍り付いたように静まり返っていた。
 涙さえ出なかった。両親も死んで、たった二人だけになった私と姉。その姉が無残に事切れても、悲鳴の一つすら口からは出てこなかった。


 小学生低学年の頃だった。両親が交通事故で死んだ。
 それまでごく普通に生活してきた私と姉は、突然両親を失い、親戚の家に預けられた。親戚は表面的には同情心を見せてくれたが、内心邪魔だと思っていた。その証拠に一緒に食事をする事などほとんど無かった。でも、私は別に気にしていなかった。
 和也。一緒にお風呂入ろうか?
 ねえ、和也。今日は二人でご飯食べよう。何が食べたい?
 和也。学校の成績はどうだったの?
 和也。二人だけでも、頑張って生きていこうね。
「‥‥うん」
 私にとって姉は、人生の全てだった。姉がいなくては生きていけなかったし、姉の為なら何でも出来た。正直死んだのが姉ではなく、両親だった事を嬉しく思った程だった。
 まだ中学生になったばかりの姉は学校から帰ってくるとすぐに、私を強く抱き締めた。両親はもうこの世にいないのに、自分達はしっかりと生きている。抱かれる度にそう思った。
 石鹸の香りと、肩を隠す程の髪の毛から漂うシャンプーの香り。それを嗅ぐと私は安心して眠れた。ここしか自分の居場所はない、と思えた。
 姉は両親はいつか戻ってくると言っていた。子供の私に交通事故で死んだとは言いにくかったのだと思う。でも、私は誰に言われるでもなく、もう二度と両親は戻ってこないのだと気がついていた。多分、小学六年生ぐらいの時だったと思う。


 親戚に預けられて四年。私は中学を卒業する歳になり、姉は高校へは行かず働く道を選んだ。それからしばらくして、私は姉と共に親戚の家を出た。親戚の名義で小さなアパートの一室を借り、そこで二人で生活を始めた。
 アパートは親戚の家とは比べものにならない程ボロかった。部屋は六畳一間で、何もかもが随分と使い古されていた。最初はその落差に驚かされたが、それを覆い尽くす程の満足感があったので、すぐに慣れた。
 高校生になった私は、姉の紹介でとあるビルの清掃のアルバイトをする事になった。大変な仕事だったが、給料も悪くは無かったし、何より姉と共に暮らしていく為の苦労は厭わなかった。
 もしかしたらその時の二年か三年の短い時間が、私にとって最も充実した時間だったかもしれない。金にはいつも不自由していたが、他の部分では何一つ不自由してなかった。十二時を過ぎてから、二人で小さなテーブルを囲んで夕食を取る。そんなつまらない時間すら幸福だった。
 姉のプライベートな部分は知らなかった。朝早くから仕事に出かけ、帰ってくるのは夜遅く。どこでどんな仕事をしているかも知らなかった。姉ももう二十歳だったのでもしかしたら風俗か何かではないかとも思ったが、それを訊ねる事は無かった。
 でも、好きな人の一人や二人はいるとは思っていた。正直、悔しかった。私だけの姉が、私の知らない所で誰かと楽しそうに話し、そして一緒に食事をしたりしている光景を想像したりすると。
 もしかしたら、私は姉に対して姉以上の思いがあったのかもしれない。もしくは憧れと恋を勘違いしていただけなのかもしれない。どちらにしろ、私は長い間姉だけを信じて生きてきた為、姉に対して異常なくらいの感情を持っていた。
 それでも、毎日の暮らしの中で、それは障害にならなかった。私はただ、姉と一緒に暮らしていけるだけで満足だった。深夜テレビを見ながら、今日は何があったとか、明日はこんな事をする予定だとか、そんな他愛の無い事を話している私と姉。
 それだけでよかった。


 私が高校二年になり、姉が二十一歳になった時、姉がある男と付き合うようになった。それから至福の時間は無くなった。男と付き合うようになってから、家の僅かな貯えはあっと言う間に無くなった。私はその男と別れるように強く要求したが、姉は、
「もう離れられない」
 とだけ言って、いつもその後の言葉を断ち切った。
 分からないではなかった。今まで姉は誰にも頼る事無く、私の面倒を見てきた。だから誰かに寄り掛かった瞬間に今までの疲労が溢れだし、もう一人では立てなくなった。
 分からないではなかった。でも悔しかった。何故、それが私ではなかったのだろう。私だったら、絶対に姉を幸せにする自信があった。でも、実の姉弟がそんな関係になれるわけがない。そんな事は分かりきっていた。
 分かっていたのに、悔しくてたまらなかった。世界でたった一人だけ、私に愛情を捧げてくれた人が、知りもしない男に寝取られた事に対して。男の前で裸になって、私の知らないいやらしい言葉を吐き、身体を重ねる事に抵抗しない姉に対して。
 もう離れたくない、と言った姉に、私は何一つ小言は言わないようにした。


 〈高瀬和也と新宮寺守(しんぐうじ まもる)〉
 ビルの清掃アルバイトは順調だった。ビルは都会の真ん中に一つだけ頭が飛び出る程高く、私以外にも多くのアルバイトが清掃の仕事に就いていた。
 私は他の人との交流もあまり無く、一人で仕事をしていた。馴れ合いながら仕事をしたくなかった。姉の姿を見た私は、自分はあんなにはならないと強く思っていて、彼女などはいなかった。学校で告白された事はあったが、一度たりとも承諾した事は無かった。
 一人で黙々と仕事をしていると、そういう世間の煩わしさを忘れる事が出来た。無心で雑巾を動かし、次第に綺麗になっていく窓を見ていると、満足出来た。
 そんな時だった。一人の少年に声をかけられた。その少年は時たま見る事はあったが、別に気にとめる事は無かった。このビルの社員の子供か誰かなのだろう、とだけ思っていた。
「お兄ちゃん、一人でやってて楽しい?」
 少年は無邪気な顔でそんな事を聞いた。歳は七、八歳かそこらで、服は学校から帰宅したばかりのような、ごく普通の服だった。清潔を絵に書いたようなこのビルの中で、その少年の姿はどこか場違いな感じがした。
「みんな、二人とか三人で仕事してるよ? お兄ちゃんは何で一人で仕事してるの?」
「‥‥一人でも大丈夫だからだよ」
 私は何気なくそんな事を言った。一瞬本当の事を言いそうになったが、こんな子供に言ったところで理解できるはずがないと、誤魔化した。
 しかし、少年はまっすぐな瞳を私から外そうとしない。その視線は、何だか全てを見透かすようで、とても子供の瞳とは思えなかった。
「そうなんだ。ねえ、お兄ちゃん、僕と遊ばない? 僕、友達いなくて淋しいんだ」
 そう言って、少年はズボンのポケットから一万円札を取り出して、私に差し出した。
 少年は笑いながら言った。
「僕のお父さんね、このビルの会社の社長さんやってるの。だから、お金ならたくさんあるんだよ。ねえ、これあげるから、僕と遊ぼうよ」
 少年は私の手に無理矢理一万円札を握らせようとする。しかし、私はこの子供に言い知れぬ恐怖を感じて、思わずその手を引いてしまった。
 金持ちの子供と言うのは皆、こうなのだろうか? 遊び相手を求める為だけに一万円を渡すのだろうか? 少年と自分の間にある見えない壁を意識せずにはいられなかった。
「? 何で貰ってくれないの? 僕と遊べないの?」
「‥‥遊ぶよ。でも、そのお金は貰えないよ」
「何で? お兄ちゃんは仕事中なんでしょ? それをやめさせちゃうんだから、何かお礼しなくっちゃ」
「今日は早めに仕事を終わりにさせるから、そうしたら遊ぼう」
 自分の意志ではなく、まるで目の前の少年にそう言わされているような気がした。遊びたかったのかは、今でも分からない。
「ありがとう、お兄ちゃん。それじゃあ僕、自分の部屋で待ってるから早く来てね。僕の部屋の番号ね、これ」
 少年は一万円札を入れていたポケットから小さな紙を取り出し、私の手に握らせた。ビルの階層と部屋の番号が書いてあった。紙を渡すと、少年はクルリと踵を返し走っていってしまった。私はただ、呆然とその光景を見ている事しか出来なかった。
 それから私は、操り人形にように上司の所に向かい、気分が悪いと嘘をついて、紙に書いてあった番号の部屋に向かった。
 その時の私は、何かに取り憑かれていたのかもしれない。それは今でもよく分からない。
でもはっきりと言える事は、あの少年は他の子供には無い何かを持っていた。孤独と言えばいいのか、孤高と言えばいいのか、言葉では表現出来ないものを彼は持っていた。


 彼の部屋に行ってやった事。それはテレビゲームだった。一人でやるのは淋しいから、と彼は言った。
 しかし、私はそんな事よりも彼の部屋に驚いてしまった。畳二十枚はゆうに入る程に部屋は大きかったのに、殆ど目につくようなものが無かった。子供一人で寝るには大きすぎるベッド、それと三十インチはあろうかと思われるテレビとCDデッキ、そしてテレビゲーム、それぐらいしか部屋にはなかった。それに、仕事場として存在するビルの中に、何故個人的に寝泊りの出来る部屋があるのかも疑問だった。
「僕ね、このゲームとっても得意なんだよ。僕に勝ったらもっとお金あげるよ」
 テレビの前であぐらをかき、自慢げにそう語る彼。姿形は子供だが、言葉の節々に子供に似合わない台詞があった。
 私は彼の言うがまま隣に座り、コントローラーを手にした。ゲームをした事は何度かはあったが、自宅にゲーム機など無く、勝てるとは思えなかった。
 でも、私は勝った。説明書を見ながら、手探りでやっていたはずなのに、面白い程連勝した。勝つ度に、彼は私のポケットの五千円札ををねじこんだ。
「お兄ちゃん、強いね。尊敬しちゃうよ」
「‥‥そんな事無いよ」
 何回かやってみて、すぐに分かった。彼はわざと負けていた。すぐにある考えが浮かぶ。私を少しでもここにとどめておきたいのだ。そうとしか思えなかった。
 画面の中でチャイナ服を来た女と、鎧を身にまとった男が拳を交えている時、私は彼に訊ねた。
「どうして同じ歳くらいの子と遊ばないんだい? このゲームは最新のやつだろう? 学校の友達とか連れてくればいいんじゃないのかい?」
「僕、みんなから嫌われてるんだ」
 言葉を言い終えると同時に、私の操っていたキャラクターの体力がゼロになった。
 試合が終わった後も、私は彼の方を見れなかった。彼の気分をひどく害してしまった事に対して、底知れぬ恐怖感があった。
 彼はゲームのスイッチを切ると立ち上がると、私の手を取った。そして、私を窓際に連れていった。
 窓から見えた景色は、私の住んでいる街を一望出来た。人など米粒以下にしか見えない。地図の縮尺図を見ているような気分だった。
 私の手を握ったまま、彼は窓に向かって呟く。
「きっとね、僕、みんなから仲間外れにされてると思うんだ。だって、僕だけこんなに広い部屋に住んでるし、欲しいものは何でも買ってもらえるし。お兄ちゃんだったらどうする? こんなに違う友達と一緒に遊べる?」
「‥‥」
 私は何も言えなかった。私は今まで、親友と呼べる程の友人を持った事など無かったし、自分から人に話しかけようともしなかった。だから、無視されて悲しい思いをした事が無かった。
「みんな、帰る時、楽しくお喋りしながら帰っていくんだ。僕はね、ここからそれを望遠鏡で見るの。でも、そんなに楽しいのかなぁ? お喋りするだけなのに。僕、お兄ちゃんとあんましお喋りしないけど、今とっても楽しいって感じてるよ」
 彼は満面の笑みで私を見た。でも、私はその笑顔に対して笑顔を返す事が出来なかった。彼の笑みは屈折している。そう思った。
 それから、彼は再びゲームをしようと言い出した。
 そして数時間して、そろそろ家に帰らないと、と言うと彼は名前を教えてほしい、と言った。
「高瀬和也だ」
「僕は新宮寺守って言うの。これからも遊んでね、お兄ちゃん」
 ビルから出た後ポケットの中を確認した。四万五千円入っていた。


 それから私は、守の部屋によく行くようになった。本当は行きたくなかった。得体の知れない何かに、身体を蝕まれていくようで気分が悪かった。しかし、部屋に来る度に彼は金をくれた。それは到底一日で稼げるような金額ではなかった。家の家計は姉の恋人のせいで火の車だった為、彼のくれる金に惹かれてしまった。
 勿論、それを姉には言わなかった。しかし、次第に生活が豊かになってくると、流石の姉も勘繰りだした。
「普通にアルバイトしていてこんなに稼げるの? ねえ、和也、何してるの?」
 たまに二人きりで食事をする時も、姉はその事ばかり聞いた。私は最初のうちは言葉を濁して逃げていたが、やがてそれも限界だと判断して、素直に全てを語った。
 姉は言葉を失った。予想していた反応だった。
「別にいいじゃないか。その子が自分からくれるって言うんだよ。何も悪い事なんかしてないよ」
 なるべく姉の目を見ないように言った。どこか後ろめたい気持ちがあった。
 姉は持っていた茶碗をテーブルに置き、私の傍によると私の肩を強く掴んだ。
「和也。いくらその子がお金持ちで、お金をくれるって言ったって、それはたかりでしかないわ。すぐにやめなさい」
 それは親が子に説教をするのと同じ口調だった。
 姉の気持ちも分からなくはなかった。たかり。そう言われても仕方ない。行く代わりに、金をもらう。ただ、相手がそれを悪く思わないだけで、世間からしてみればたかりや強請りだと思われても文句の一つも出ない。
 しかし、私はいかにも自分が正義であるかのような振る舞いで説教する姉がひどく憎らしく思えた。何でそんな顔で俺を見る事が出来るんだ? そんなにあんたは偉い事してるのかよ。そんな思いが頭の中で爆発し、そしてつい言ってしまった。
「だったら姉さん、今の恋人と別れてよ。その男のせいで苦しい生活を強いられてるんだよ、俺達。姉さんがその男と別れてくれたら、俺もきっぱりとその子とは縁を切るから」
 そう言うと、姉は肩を揺さ振る手を止めた。その時の姉の顔はおそらく一生忘れないだろう。戸惑い、困惑、怒り、そして激しい悲しみのような感情が入り交じった顔。
「‥‥」
 私は何も答えない姉の顔をじっと見つめていた。心のどこかで勝ち誇ったような高揚感があった。もう一押しすれば、姉はその男と別れ、そしてまた自分の所に戻ってきてくれる。戻ってくれば、またいつかのように何気ない日常がやってくる。そんな思いがムクムクと膨れだし、止められなくなっていた。
「その男と別れれば、また昔の生活に戻れるんだよ? その方がいいじゃないか」
 逆に姉の肩を掴み、私はそうまくしたてた。嘘も遠慮も無い、真実の気持ちだった。しかし、姉はそんな私に悲しそうな瞳を向けた。そんなに責めないで。そう、訴えているかのようだった。
「和也‥‥。あなた、誰かを好きになった事ある?」
「えっ?」
「無いでしょう? まだ、女性とセックスした事も無いでしょう? だからそんな事言えるのよ」
「‥‥」
「私は今まで和也の事だけを思って生活してきた。それがお父さんやお母さんに対する償いだと思ってた。でもね、もう疲れちゃったのよ。その時、あの人が現れたの。優しい人だった。疲れた私の身体を暖めてくれた。その時、何もかも抜けちゃったのよ。今まで張り続けてたプライドとか虚勢とか、そういうのが全部無くなっちゃったの」
「‥‥」
「あなたもいずれ分かるわ。誰かに愛されてるって思うと、何もかも捨ててもその人と一緒にいたいって思えちゃうのよ。ごめんね、和也。お姉ちゃん、もうあの人から離れられない‥‥」
 大粒の涙を流しながら、姉は言った。その時私は、姉との間に埋められない深い溝がある事を悟った。
 本当は言いたかった。僕は姉さんを愛してるんだと。何もかも捨てて、あなたの傍にいたいのだと。
 でも言えなかった。もう姉の気持ちは、私の所になど無かった。身も心もその男の所にあった。いくら訴えたところで、もう手遅れなのだと気づいたその時、私はどうしようもなく自分が情けなく感じ、泣きじゃくる姉の手を振りほどき、家から出ていった。


 夜の街を当ても無く徘徊しながら、これから何をすればいいのか考えた。でも分からなかった。
 青白い闇夜の中を飛び交う烏達が、遥か遠くの空で鳴いている。今はその鳴き声さえ心地良かった。無音の中で、一つの事をずっと考え続けるのは苦しくてたまらなかった。
 素直になど、話さなければよかった。
 新宮寺の事など言わず凄く頑張っているんだとでも言って、それで今までの中途半端でもまだ少しは幸せだった生活を送っていれば良かった。だが、もう手遅れだった。その時、ふと守の言葉が思い起された。
 そんなに楽しいのかなぁ? お喋りするだけなのに。
 言葉など交わさなければ良かった。そうすれば、こんな苦しい思いをしなくて済んだ。
 そう思った時、私の足は自然と守の所へ向かっていた。


 〈高瀬和也と高瀬希と新宮寺守〉
「なあ、守」
「んっ? 何?」
「この前、こんな事言ったよな。お喋りするのが楽しくないって」
「‥‥言った気がするけど、はっきりと覚えてない」
「守の言ってる事、正しいと思う。お喋りなんて、全然楽しいもんじゃないよ」
 テレビ画面を見ながら、私は言った。姉との出来事があってから私は彼の事を名前で呼ぶようになった。その時の私には、彼以外頼れる人がなかった。
 守はテレビ画面から視線を反らさず、懸命に指を動かしながら応える。
「でも、僕、今お兄ちゃんと話してて楽しいよ」
「それは同じ気持ちを持ってるからだよ。違う気持ちを持ってる人同志が話をしたって、面白くも何ともない」
 あの日からあまり家に近寄らなくなった。守が泊まっていけば? とよく聞いてきたので、それに甘えていた。生活自体はこちらの方がうんと豪勢だった。今まで食べた事の無いよう珍しいものまで口にする事が出来た。
 私は守との生活に安堵感を感じていた。自分の傍にいてくれる子は、自分と同じ気持ちを持ってる。そう思う事で、安心出来た。
 正直、もう姉などどうでもよかった。全てを打ち明け、そして拒絶した姉など、どうにでもなれ、と思っていた。
 守の方も、私との生活に満足していた。まるで実の兄と弟のように、いつも一緒にいた。高校も殆ど行かなくなっていたし、清掃のアルバイトも辞めた。彼と生活していれば、金に困る事など無かった。守の親はいつも忙しいらしく、私は一度たりとも彼の両親の顔は見なかった。それも、好都合だった。
 日々、私は守に自分の考えを教え込んだ。
「人が自分の事を頼りにしているのなら、その人を絶対に裏切っちゃいけない」
「うん」
「裏切られるって事はとても苦しい事だから」
「うん」
「もしも、裏切られるのなら、そいつはもう人間として駄目な奴だ」
「うん」
「それこそ、殺すくらいの気持ちを持て。そして、それを糧にして、自分を信頼している人は絶対に裏切らないようにするんだ」
「うん」
 私は姉が自分にやった事に対する当て付けとも呼べる行為に耽っていた。他の人がこんな気持ちを持ってはいけない、などと言い訳を並べて、本心は姉に対する憎しみを守に教えていた。そうする事で、姉への復讐を果たせると思っていた。


 そんな事を一年近く続けていたある日。家に自分の服を取りに行こうとした時だった。姉と鉢合わせしてしまった。姉は私の知らない男と一緒に居間で食事をしていた。
 姉は私の姿を見ると、昔と何ら変わり無い笑顔で、私に抱きついた。
「本当に無事で良かった‥‥」
 姉は目の淵に涙を溜め込みながら言った。その時、姉の恋人だと思われる男は、テーブルに並べられた皿から料理を取りながら、私を見上げていた。喜んでいるとも、怒っているともとれない顔だった。
「あの時は本当にごめんなさい。でも分かってほしかったの。今でもその気持ちは変わってないわ。この人が言っていた人よ、上月真一さんって言うの」
「‥‥どうも」
 真一は素っ気なく答えた。
 今だからこそ言える。その男はあの神谷瑞樹が愛してやまない、あの上月真一だった。でも、その時の私は勿論、彼女の事なんて知りもしなかった。
 だから、その時は単純にこいつが姉の恋人か、と思った。
「一緒に食事しない? せっかくだから、三人で話でもしましょうよ」
 姉は涙を乱暴に服の袖で拭きながら、明るく言った。しかし、私はとてもそんな気になれなかった。自分から姉を奪った男と食事なんてしたくもなかったし、何より姉の言った一言が気に食わなかった。
 話でもしましょうよ。
「‥‥俺、もう行くよ」
 これ以上ここにいるのが嫌になり、私は踵を返すと服を取りに来るという目的も忘れ、すたすたと玄関に向かった。その後ろを姉がついてくる。
「大丈夫よ。絶対に和也も気にいると思うから」
「‥‥」 
 懸命にその男と話をさせたがる姉が、どうしようもなく憎くかった。
 また俺を苦しめるつもりなのか? また、俺に烏の鳴き声を聞けと言うのか? もう、うんざりだ。もう沢山だ。頼むからこれ以上、俺にそんな姿を見せないでくれ!
 それを姉に言ったのかどうかは、はっきりとは覚えていない。ただ、玄関から外に出る時、姉はもうついてこなかった。
 真一に会ったのはその時と、瑞樹とのダイアローグ・ギルティの時だけだった。


 守の部屋に戻ってきた時、私の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。守が慌てて駆け寄り、どうしたの? と聞いてくる。私はそれにすら答えられず、ただただ泣きながら絨毯を力任せに殴る事しか出来なかった。
 それから、全てを守に話した。子供に言ったところで理解してもらえるとは思ってなかったが、ずっと自分一人の心にしまっておく事が出来なかった。誰かに言う事で、少しでも楽になりたかった。
 守は何も言わず、黙って私の言う事を聞いてくれた。きっとその時、私が再三教えた事の意味が理解できたのだろ。私が全てを言い終えた後、一言、
「きっと、その気持ちを無くしてあげるから」
 とだけ言った。その顔は、何かを決意したような、そんな顔だった。
 それが、全ての始まりだった。


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